statement

◉statement③【平成30年7月7日更新】

「世界に身体を貸し与える」という発想は、中平卓馬先生も提唱していましたが、似てはいるが少し違う。

富野由悠季先生が提唱した「ニュータイプ論」の辿り着いた涯てに近いです。

世界とは、事物も、森羅万象も、生きている心通った人々も、死者も、「存在とは別の仕方で」存在する何かも全て含まれる。

「至る所に命の流れを感じる事」

命の流れを感じながら、刻を超え、次元を超え、暖かな光に包まれる感覚。

刹那にして、その空間、その場、その事物、命の流れを察知し、その命の流れの生い立ちを刹那に感じ取る。

重要なことはカミーユの様に精神崩壊にならず、中平卓馬先生の様に失語症にもならず、「世界に身体を貸し与える」事を行い、魂に、阿頼耶識に、命の流れの持つ記憶を薫習する事。

写真とは、その薫習し新生した身体が発現したものの名残であり、その記憶の記録である。

◉statement②【平成30年7月1日更新】

世界に体を貸し与えることによって、無我の境地へと達するように仕向ける。

今、この世界に生きている人々だけでなく、かつて、ここに存在した人々、生命、存在に、体を貸し与える。あるいは、「存在とは別の仕方で」(レヴィナス)存在する何かに体を貸し与える。

時間と空間を超えて、次元を超えて、この世とあの世を超えて、黄昏(誰そ彼)を超えて、目に見えない何かに、絶えず変容する何かに己自身を、精神を、自我を、体を貸し与えることで、《空間》に歪みが生じ、何者かを呼び込む。あるいは、何者かによって導かれ、媒介として、触媒として、状況を絶えず変容させることにコミットメントさせられるままにする。自動書記のように、身体を、精神を、自我を、何かに貸し与える。

すると、何かが眺めている場所へ自然と足が進み、身体と、精神と、何かと一体化したカメラが勝手に動き出し、何かが示唆したタイミングでシャッターを切ることになる。

それこそが、無我の境地と言える。

そこには、自我の、自意識の入り込む余地はない。

自意識と思い込んでいる何かすら、次元を超えた、「存在とは別の仕方で」存在する何かによって私たちは、思考していると思い込み、動いていると思い込んでいる。

 

「人間は、感覚も観念も自分に与えることができないからな。人間は全てを受け取る。苦痛や快楽は、人間の存在と同じ様に、よそからその者のところへやってくるのじゃ。」

「悪人はつねに不幸なのだ」

「彼らは地上に散在する少数の正義の人に試練を与えるのに役立っている。善を生まない悪はない。」

(ヴォルテール著『カンディード』より「サディーグまたは運命」岩波文庫)

 

ヴォルテールが示したように、あるいは、カート・ヴォネガットが『タイタンの妖女』で示したように、我々の行っていることは、別の次元の何かが、「存在とは別の仕方で」存在する何かが、何かの目的を遂行するために、我々を無意識に導いているのだと感じます。

 

写真とは、被写体(事物・事象・森羅万象・存在とは別の仕方で存在する何か・空間にあるアウラなど)との交信によって「撮らせて頂いている」のである。

 

空間の裂け目、あちらとこちらの狭間、空間の目、存在とは別の仕方で存在する何かの、「見えざる手」によって、導かれ、無意識に画角を決め、空間に存在するあらゆるもの=絶えず変容し続ける何か=存在とは別の仕方で存在する何か、を、写真によって具現化する行為であり、同時に、その何かのメッセージを、後世に伝えるための媒介としての役目を担っているのだと確信しました。

 

写真作家とは、触媒であり、ある種の空間に潜み絶えず変容する何か=存在とは別の仕方で存在する何かとの交信と、その何かからのメッセージを写真として具現化し、伝える役目を与えられた存在なのだ。

 

私は進んで、その、ある空間に潜んで絶えず変容し続ける「存在とは別の仕方で」存在する何かに身体を貸し与え、精神を、心を、自我をも貸し与え、その「存在とは別の仕方で」存在する何かが我々に伝えるメッセージを写真で掬い取り、伝燈として、後世に伝えて行く覚悟と決意を持って交信して行く所存です。

2018年7月1日 坂倉恒

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◉statement①【平成30年6月29日更新】

人は、かけがえのない日常を失って、そこで初めて、日常の大切さを、ありがたみを認識する。

毎日の暮らしの中で、本当に大切なものは、絶えず身の回りにあり、あるいは大切なものを想い、想像すると、そこに含まれている事を実感する。

だが、あまりにも日常に密接しているため、そのかけがえのなさ、愛着、心通わせ合う親密さが、「当たり前」のものと思い込んでしまう。

我々を取り巻く世界情勢、社会、天変地異、その他、様々な事象、事件などにより森羅万象は絶えず変わり続ける。

その変化に飲み込まれ、日常が非日常になった時、初めて人は、日常のありがたさを、かけがえのなさを、認識する。

だが、失ったものは二度と戻ってこない。

東日本大震災の後、同時多発的に、自発的に起こったのは、流された写真を洗浄し、持ち主に返すプロジェクトだったと言う。

それが意味するのは、思い出を想起させ、共有するための入り口として、写真が存在していると言う事である。

かけがえのない日常の中にある、共有化された想いの集合体。

「写真とは思い出である」と森山大道先生が喝破したように、思い出を喚起し、日常を失った人々の心の支えとなり、活力源となる。

そのような写真の力を信じ、失われゆくもの、遥か昔からそこで眺めたであろう人々の想いをカメラを媒介として、己の精神、身体をも媒介とし、今生きている人の想いだけでなく、かつて、存在していた人々の想いをも感じ取り、写真の中に、その想いを、結実させる。

それは、初めて見るのに懐かしく、見た人々それぞれの思い出の記憶に働きかけ、異化効果を発揮する。

「かつて、そこに、あった」(ロラン・バルト)

失いかけた日常のかけがえのなさを想起させ、各人の思い出を共有し、それぞれが、己の為すべきことを思い出す。

そんな写真を、思い出から零れ落ちるようなものを掬い取るように、シャッターを切り、写真に納めたいと思います。

平成30年6月29日 坂倉恒